こども検診医療基金・関西と避難移住者たちの手記

◉東電福島第1原発は事故から2年以上も経過しましたが、
未だに仮設対応の域をでず、際限なく増え続ける放射能汚染水の対策は不十分です。
そして、住宅地の除染は行えても山野に残る放射性物質の除染は、本当にできるのか
疑問です。
そうした中、子育てへの不安などから自宅を出て西日本に移住している人は京都府だけで
1千人を越え、そのほとんどが子どもへの健康を心配した"母子避難"だということです。
子どもたちの被爆の影響を見守るために半年に一回程度の検診が必要とのことですが、
自己検診には甲状腺エコーと血液検査だけでも、年間2万円の費用が必要だそうです。
医療支援を受けられない避難移住者の子どもたちの検診費用助成のために
「こども検診医療基金・関西」が創設され、避難移住者の手記と中村純詩集の売利上げや
寄付金を基金として支援活動を行っています。
この活動に賛同し、自分にできる行動を起しましょう!

★こども検診医療基金・関西
http://kodomokenshin.com/

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「まだ恋も知らぬわが子」
        俵万智(宮城県仙台市↓石垣島)
 「避難移住者たちの手記(第一集)」を読み、子どもを思うお母さんたちの切実な言葉に、深く共感しました。同じように避難移住した仲間として、書かせていただきます。
 震災の日、私は仕事で東京にいました。当時、息子と私は仙台に住んでいて、近くには私の両親かおり、子育てを全面的にサポートしてくれていました。
 交通網がマヒしてしまったため、山形経由で仙台に帰れたのは三月十五日でした。その日のうちに荷物をまとめ、翌朝早く、息子と二人でふたたび山形空港をめざしました。余震と原発が落ち着くまで、という思いで、たまたま空いていた那覇便に乗り、ひとまず沖縄に落ち着きました。息子の学校は避難所になり、そのまま春休みということだったので、どうせならできるだけ遠くへ行こうという気持ちでした。
 那覇で二週間ほどを過ごしましたが、状況はいっこうによくならない。とにかく原発がどうなるのかわからないまま仙台に帰る気持ちにはなれませんでした。ホテルで毎日のように津波や原発の映像を見ていたら、息子に指しゃぶりや赤ちゃん返りのような症状が出はじめ、これはいけないと、テレビを消し、近くの本屋さんへ行ったりしました。
 お金も底をつき、とほうに暮れはじめたとき「そういえば友人が石垣島に移住したと言っていたっけ」と思いだし、彼女に連絡をとりました。すると「もっと早く言ってくれればよかったのに」と、友人は快く、我々親子を居候させてくれたのです。
 石垣島の自然に触れて、息子はみるみる元気を取り戻しました。近所の子どもたちとも仲良くなり、彼らのワイルドさに圧倒されながらも、男の子らしく生き生きと走り回っています。その様子を見て「ここで子育てもありかも」と思いました。
 私の場合、シングルマザーなので身軽であることや、物書きというどこにいてもできる仕事を持っていること、それに加えて支援してくれる友人の存在など、ほんとうに恵まれた要素が多く、移住の苦労は、他のみなさんよりずいぶん少なかったと思います。それでも、両親と離れる辛さや、慣れない土地での戸惑いなどはありました。自分さえよければいいのか、仙台を捨てるのかという非難めいた声も聞こえてきました。
 それでも心を強くしていられたのは、とにかく少しでも安全なところで子どもを育てたいという思いがあったからです。空間線量が落ち着いてきたと聞き、心が揺れたこともありましたが、次に内部被曝のことを知り、やはりこの地での子育てを継続しようと思いました。
  まだ恋も知らぬ我が子と思うとき
     「直ちには」とは意味なき言葉
 ほんとうに大丈夫なら「あなたの子どもは、将来にわたって、放射能の影響で病気になることは絶対にない」と言ってください。私は、この「直ちには」という言葉を聞いたとき、心底ぞっとしました。
 みなさんの手記を読んで、避難移住にまつわる苦労やストレスについては、はかりしれないものがあると感じました。ただ、なにごとも思いつめるだけでは、苦しくなるばかり。私自身のことで言えば、こうと決めたからは、こうしてよかったと思えることを増やしていこうと思っています。
 新しい土地で出会った風景や人とのつながり。「好き」を増やしていくことが、気持ちを前向きにさせてくれます。
避難移住して、一番変わったことは「どんな子どもになってほしいか」という問いへの答えでした。
かつては「一人でも生きていける、しっかり自立した人」と答えていました。もちろん自立も大事ですが、
結局人間は丁人では生きていけないのではないかと思います。
だから「いざというとき、人とのつながりを築ける人」と今は答えています。
by yamana-4 | 2013-04-29 10:10 | 東日本大震災
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