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こども検診医療基金・関西と避難移住者たちの手記

◉東電福島第1原発は事故から2年以上も経過しましたが、
未だに仮設対応の域をでず、際限なく増え続ける放射能汚染水の対策は不十分です。
そして、住宅地の除染は行えても山野に残る放射性物質の除染は、本当にできるのか
疑問です。
そうした中、子育てへの不安などから自宅を出て西日本に移住している人は京都府だけで
1千人を越え、そのほとんどが子どもへの健康を心配した"母子避難"だということです。
子どもたちの被爆の影響を見守るために半年に一回程度の検診が必要とのことですが、
自己検診には甲状腺エコーと血液検査だけでも、年間2万円の費用が必要だそうです。
医療支援を受けられない避難移住者の子どもたちの検診費用助成のために
「こども検診医療基金・関西」が創設され、避難移住者の手記と中村純詩集の売利上げや
寄付金を基金として支援活動を行っています。
この活動に賛同し、自分にできる行動を起しましょう!

★こども検診医療基金・関西
http://kodomokenshin.com/

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「まだ恋も知らぬわが子」
        俵万智(宮城県仙台市↓石垣島)
 「避難移住者たちの手記(第一集)」を読み、子どもを思うお母さんたちの切実な言葉に、深く共感しました。同じように避難移住した仲間として、書かせていただきます。
 震災の日、私は仕事で東京にいました。当時、息子と私は仙台に住んでいて、近くには私の両親かおり、子育てを全面的にサポートしてくれていました。
 交通網がマヒしてしまったため、山形経由で仙台に帰れたのは三月十五日でした。その日のうちに荷物をまとめ、翌朝早く、息子と二人でふたたび山形空港をめざしました。余震と原発が落ち着くまで、という思いで、たまたま空いていた那覇便に乗り、ひとまず沖縄に落ち着きました。息子の学校は避難所になり、そのまま春休みということだったので、どうせならできるだけ遠くへ行こうという気持ちでした。
 那覇で二週間ほどを過ごしましたが、状況はいっこうによくならない。とにかく原発がどうなるのかわからないまま仙台に帰る気持ちにはなれませんでした。ホテルで毎日のように津波や原発の映像を見ていたら、息子に指しゃぶりや赤ちゃん返りのような症状が出はじめ、これはいけないと、テレビを消し、近くの本屋さんへ行ったりしました。
 お金も底をつき、とほうに暮れはじめたとき「そういえば友人が石垣島に移住したと言っていたっけ」と思いだし、彼女に連絡をとりました。すると「もっと早く言ってくれればよかったのに」と、友人は快く、我々親子を居候させてくれたのです。
 石垣島の自然に触れて、息子はみるみる元気を取り戻しました。近所の子どもたちとも仲良くなり、彼らのワイルドさに圧倒されながらも、男の子らしく生き生きと走り回っています。その様子を見て「ここで子育てもありかも」と思いました。
 私の場合、シングルマザーなので身軽であることや、物書きというどこにいてもできる仕事を持っていること、それに加えて支援してくれる友人の存在など、ほんとうに恵まれた要素が多く、移住の苦労は、他のみなさんよりずいぶん少なかったと思います。それでも、両親と離れる辛さや、慣れない土地での戸惑いなどはありました。自分さえよければいいのか、仙台を捨てるのかという非難めいた声も聞こえてきました。
 それでも心を強くしていられたのは、とにかく少しでも安全なところで子どもを育てたいという思いがあったからです。空間線量が落ち着いてきたと聞き、心が揺れたこともありましたが、次に内部被曝のことを知り、やはりこの地での子育てを継続しようと思いました。
  まだ恋も知らぬ我が子と思うとき
     「直ちには」とは意味なき言葉
 ほんとうに大丈夫なら「あなたの子どもは、将来にわたって、放射能の影響で病気になることは絶対にない」と言ってください。私は、この「直ちには」という言葉を聞いたとき、心底ぞっとしました。
 みなさんの手記を読んで、避難移住にまつわる苦労やストレスについては、はかりしれないものがあると感じました。ただ、なにごとも思いつめるだけでは、苦しくなるばかり。私自身のことで言えば、こうと決めたからは、こうしてよかったと思えることを増やしていこうと思っています。
 新しい土地で出会った風景や人とのつながり。「好き」を増やしていくことが、気持ちを前向きにさせてくれます。
避難移住して、一番変わったことは「どんな子どもになってほしいか」という問いへの答えでした。
かつては「一人でも生きていける、しっかり自立した人」と答えていました。もちろん自立も大事ですが、
結局人間は丁人では生きていけないのではないかと思います。
だから「いざというとき、人とのつながりを築ける人」と今は答えています。
by yamana-4 | 2013-04-29 10:10 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(0)

釜石市両石町の津波襲来映像記録ビデオ上映とシンポジウム、撮影者の瀬戸元さんを招いて

◉12月9日、神戸芸術工科大学で「地震と津波を受けとめて」自然災害を語るシンポジウムが行われました。
釜石の一つ北側の湾にある両石町は豊かな海に恵まれた豊かな漁港ですが、たびたび津波の来襲を受け
被害を受けてきましたが、この度の被害は昭和33年の大津波で高台移転した集落も根こそぎさらって
行ったほどの、経験したことのない大津波だったとのこと。
これを「後世に伝えなくては」とビデオ撮影し続けた瀬戸元さんを迎え、上映と体験談を主に神戸の被災
体験者と被災地支援をしている二人の建築家を交え、写真家の宮本隆司さんがファシリテーターで。
被害を少なくするのは「経験を語り継ぎ、忘れないこと」幾度も被災した地域に住み続ける人の言葉には
強い説得力があり、大型スクリーンでの映像はUチューブとは全く違う臨場感がありました。


★参加パネラー
・瀬戸元(ビデオ撮影者、釜石市両石町復興協議会会長)・季村敏夫(詩人、神戸震災体験者)
・宮本佳明(建築家、大阪市大大学院教授、ゼンカイハウス)・斎木崇人(建築家・神戸芸術工科大学学長)
・宮本隆司(写真家、神戸芸工大教授、九龍城砦)
 阪神・淡路大震災直後の神戸を撮影第6回ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展に
 宮本、斎木氏と共同出展して金獅子賞を受賞

このシンポジウムは瀬戸さんの映像DVDを斎木学長から見せられた宮本教授が、現地を訪れ瀬戸さんに
インタビューして親交を深め東北支援に関わるようになったのがキッカケとか。
瀬戸さんの話を少し紹介
・引浪は悪魔の笑い鬼の爪、後に残るは涙のタネ。
 ビデオで瀬戸さんは「地獄だあ、地獄だあ」と叫び続けていたが、記憶がないとのこと。
・助かるも助けるもまず命!「命てんでこ」人助けようとして命を落とした人が多く出た。
 まず逃げなくてはならない「鬼になる心を持てるか」何で自分だけ逃げた、助かったかと悩むな!
・津波は来るのでなく襲う!700mを1分で来る。5分で逃げられる場所の目ッコをつけておけ。
 日頃から家族で話し合っておけ。今回は一人の死者も出さなかった。
・昭和33年の津波での3人の死者の内2人は障害者だったが、今回は要援護者に1対1で軽トラに
 乗せて逃げる役割の人を決めていた。
・上に立つものの判断の重要さ。的確な指示があれば犠牲者はもっと少なくすんだ。
(例えば、福島で備蓄されていたヨード剤の配布・飲用を、政府指示を待たずに独自判断で行った
 自治体がいくつあっただろうか?)
・箱眼鏡で海底を見るのが怖い。瓦礫は100m以上沖に沈んでいるが・・・。

<津波などの画像は瀬戸さんのビデオ記録上映画面より撮影させて頂いたものです>

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★西神ニュータウンは、神戸市西区・須磨区の丘陵地帯に住宅と産業を中心とする複合機能団地として計画された。
 西神住宅団地が1982年、神戸研究学園都市が1985年で5校の大学と高専や専門学校、高校や中小学校が集中。
 最寄り駅「学園都市駅」は三宮から市営地下鉄の西神・山手線で20分程度。
by yamana-4 | 2011-12-11 16:42 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(2)

「生の声で伝えた」関西で初めての東日本大震災被災三県の障害被災者当事者報告会と支援催し

◉11/23 東北⇔関西障害者支援ポジティブ生活文化交流会(扇町公園)が行われ、
約5000人ものの参加者があったとかで大盛況でした。
同時に関西でははじめて、岩手・宮城・福島三県の被災地障害者支援活動を担う人たちが一堂に集まり、 
牧口さんのザックバランな司会で、被災地の障害者から震災直後の様子や、避難所の実態などが
生の声で伝えられました。
福島南相馬からの青田さんの発言は、特に衝撃的でした。
「子供達の将来のため、福島の履歴を消したいから県外へと思う親が多い。
除染は除けるだけで無くならない、それでも福島にいたい!外からの応援があれば残れる、
これからも見捨てないで。福島県の復興はまだ始まっていない!」

福島ではどうしようもない放射能汚染の上に、子供達の将来への心配が強く、
広島というだけで縁談への差し障りなどがあったことの再来を恐れてと。
東電や政府は、このような事への思いがあるのでしょうか?
言いようの無い怒りが込み上げてきます。

★被災地報告会/3.11 東北・関東大震災 そのとき障害者は!
 ー復旧ではなく復活をめざしてー

 報告者:被災地障害者支援センターいわて 八幡隆司 氏(ゆめ風基金)
    (CILもりおか 今川幸子さんが来られなくなり八幡氏が代行 
    被災地障害者支援センター 井上朝子 さん、及川智 さん
    被災地障害者支援センター 白石清治 さん
    南相馬市デイさぽーと・ぴーなっつ 青田由幸 さん
 コーディネーター:牧口一二 さん(ゆめ風基金代表)
*詳細はゆめ風基金ブログをご覧ください。
 http://yumekaze21.blog39.fc2.com/

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by yamana-4 | 2011-11-28 11:27 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(0)

宮城県と福島県の被災地視察の報告 4/1〜4/4(DPI-MLより)

★ゆめ風基金へ震災以後寄せて頂いた救援金83,735,666円 4月13日現在
救援金のご送金は/郵便振替口座 00980-7-40043 ゆめ風基金
ゆうちょ銀行 店番099 当座0040043 ユメ カゼ キキン

◉被災地での様子をお伝えします。
テレビが通常放送に戻り、だんだんと物流や交通機関も復旧してきている
というニュースが流れ始めていますが、
今もなお明日の不安を抱えながら、ぎりぎりの状況で生きている人々がいます。
どうか、そんな人たちのことを忘れないで下さい。
下記は4月1日から4泊5日のスケジュールで行った、
救援本部安達さんの宮城県と福島県の視察の報告です。

<DPI日本会議メールマガジン(11.04.8)第289号より転載>

<4月1日>
 地震から3週間たったこの日、仙台市太白区のCILたすけっとを訪問した。
 東北道は多少の凸凹はあったが復旧しており、八王子から5時間程度で到着した。
 出迎えてくれたスタッフの笑顔にほっとしつつ、
 さっそく乗り付けたトラックの荷台から布団や経口栄養剤などの物資と原付を降ろす。
 事務所に入り、温かいせんべい汁をご馳走になりながら、この3週間の話しを聞いた。
 スタッフは無事であること、市内のライフラインはほぼ復旧し日常生活は営めること、
 今後近くに仮設住宅ができるであろうことなど。

<4月2日>
 多賀城市と石巻市の避難所を訪問した。
 「やるべき事は、現場を見たらわかる」という佐野さん(ぽてとファーム)の言葉通り、
 避難所は多くの問題を抱えていた。
 多賀城市文化センターは避難者で足の踏み場はなく、むっとする空気で溢れていた。
 和室に入れた人やロビーのソファーが使えた人はまだ良いが、
 多くは堅いタイル敷きの廊下にダンボールとせんべい布団を敷いて寝起きをしている。
 一目で、高齢者や障害者が長期生活ができるような環境ではないとわかる。
 タイルの廊下の片隅で、ダンボールの上に敷かれた布団がシワ一つ無く
 きれいに折りたたまれている光景に目を奪われた。
 辛い避難生活の中にありながら、身の回りのものを整える事を忘れない心遣いが、
 とても痛々しく、胸がしめつけられた。

 避難所生活の壮絶さを初めて目にして言葉もなく、ただ石巻市へトラックを走らせた。
 津波被害にあった石巻市立病院の患者が避難しているという遊楽館(ゆうがくかん)を目指す。
 ここはスポーツ施設で、体育館がある。
 体育館に150~160人の患者がきれいに並べられているのだが、ついたては一切無い。
 説明によると看護師やヘルパー等の人手が足りず、
 ついたてがあると患者の急変に対応出来ないという。

 人手不足を解消するために、近所の中学生がボランティアで手伝いに来ており、
 布団の間を歩き回りながら、 患者が手を挙げたら看護師を呼ぶ役割を担っていた。
 ついたてがないと言うことはプライバシーが無い。
 オムツの交換が必要な患者は、その場で布団をはぎ取られ、
 下半身を露わにされてオムツ交換となる。
 それが、ボランティアの中学生の目の前で行われている。

<4月3日>
 福島県に移動し、福島市、南相馬市、郡山市を訪問する。
 福島市ではILセンター福島の方々を訪ねた。
 マスコミ報道でも知られているが、福島市は第一原発から30km圏外であるが
 放射線の測定数値は高い。
 殆どの家庭で子供を他県の親類縁者の所へ避難させていると言う。

 「今後、福島県出身だというだけで結婚できない、という福島差別が起こるだろう」
という言葉に、福島の人達が抱える恐怖を垣間見た。

 114号線を東へ走り、南相馬市に入る。街は閑散とし、商店は閉まり、人気が無い。
 とりあえず市役所へ行くと、日曜日にもかかわらず多くの市民が住民課を訪れていた。
 転居届を出しているのだろう、と思った。
 ボランティアの受付は社会福祉協議会へ、という張り紙を頼りに、社協へ。
 救援物資の受け付け場所にもなっていた。
 トラックのナンバーが八王子なので気になった、という男性が話しかけてきた。
 この男性も八王子からボランティア活動をしに来たという。
 男性によると、この物資受付所で10名程度が活動しているが、
 南相馬市の人は1人だけで、あとはボランティアらしい。
 中を見せてもらうと、私設の倉庫程度の物資しかない。
 これで現在市内に残っている2万人の市民を支えるのは無理があるだろうと思った。
 話しを聞くと理由は原発だ。隣の相馬市なら行ってくれるドライバーはいても、
 南相馬市へと言うと一様に断わられるらしい。
 しかたなく、ボランティア達が相馬市の倉庫へ物資をもらいに行っていると言う。

 海岸へ向かい、津波被災地を見た。家も田畑も、道路のアスファルトも、
 高圧電線の鉄塔までも流されてしまった現場で、
 ゴルフクラブを手に泥の中を歩く住民の姿があった。
 津波から3週間、毎日何かを探し歩いているのだろう。涙があふれた。

 郡山市へ向かう道中、浪江町へと続く道路が警察車両によって封鎖されているのを見た。
 オフィスILを訪問した。

<4月4日>
 いわき市と田村市を訪問した。
 原発から20km圏内の川内町等の人々が避難しているビッグパレットふくしまを訪問した。
 1万人ほどの人が避難生活をしているという。
 施設内には、人目や寒さを防ぐためダンボールで作った小屋が建ち並ぶ。
 蓄積された知恵が、長い期間ここで生活していることを伝えている。
 ここで不思議に思うことが2つあった。
 一つは障害者の姿を全く見かけないと言うこと。
 人口の8~10%が障害者であるという日本政府発表からすると、
 800~1000人程度の障害者がいてもおかしくないのだが。
 もう一つは、介護が必要な方のスペース、と張り紙がされている場所が2階にあると言うこと。
 エレベーター前もダンボールハウスで埋め尽くされ、
 エレベーターが機能していないことが推測できるのだが、
 どうやって要介護者が2階へ移動するのか、不思議である。

 日のある内に被災地を見ておきたくて、いわき市へと急いだ。途中雪が降ってきた。
 いわき市もライフラインが復旧しつつあり、
 街には部活帰りと思われる自転車通学の学生が集団で走っていた。
 CILいわきには連絡もなく行ってしまったが、快く出迎えてくださった。
 CILいわきは現在新宿区の戸山サンライズに避難している。
 しかし、集団避難も時間的に限界があると言う。
 事業を中断している間に一度はなれたヘルパーは二度と戻ってこない、という不安がある。
 なるべく早く戻り事業を再開しないと、今後の障害者の生活が保障できなくなるらしい。
 しかし、原発の怖さは常に念頭に置きつつの事業運営となる。
 いざとなれば150人規模で集団避難できるルートと避難先を確保しなくては、と言う。
 しかし、いわき市全土が避難勧告が出ると言うことは、福島市も郡山市も同様であり、
 100万人が避難するということになる。
 それをどこで受入れるのだろうか。
 その時点でも東京は全く原発被害がない、とは言えなくなるだろう。

 夕方、田村市にとある夫妻を訪ねた。

 農家は土地を本当に大切にしてきたんです。手を掛けて可愛がれば、土地は応えてくれる。
 猫の額ほどの土地でも、他人の手に渡らないようにするために
 近しい親類縁者と結婚して守り抜いて来た。
 それを手放すのはどんなに辛いか。
 放射能に汚染された土地でも、見た目には全くわからない。
 それが悔しい。色が付いていたり、臭いがしたりしてくれれば、あきらめもつくのだけど。
 と、涙ながらに話してくれた。

 言葉につまる妻にかわって、微笑みながら言葉をつなぐ夫の
 「福島は貧しいところなんです。日の当る土地は田畑にし、自らは日陰に住むんです。」
という言葉が、深く胸に突き刺さった。

 多くの介護派遣事業所も被災し、利用者の安否確認が進んでいない。
 現在仙台と郡山に現地拠点を設置し、その作業にあたっている。
 今後、仮設住宅のバリアフリー化、介助派遣の人材確保、
 ヘルパー講座の講師派遣、被災者の心のケア、ピアカウンセラーの派遣、
 原発被災者の避難場所の確保、などなど思いつく課題は沢山ある。
 ひとつひとつ、しかし早急に進めていきたい。

障害者救援本部の最新情報および支援金の寄付の受付はこちら↓
http://shinsai-syougaisya.blogspot.com/
by yamana-4 | 2011-04-08 13:13 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(1)

ゆめ風基金の障害者支援報告(抜粋)

障害者支援を行っている「ゆめ風基金(代表牧口一二さん)」の報告の抜粋です。
大阪でも、現地でもボランティアの人手が足らず希望者を求めています。
http://yumekaze21.blog39.fc2.com/
"http://homepage3.nifty.com/yumekaze/index.htm
<報告の抜粋>(転載ご自由に)
・4月6日までに、被災障害者支援ゆめ風基金に寄せられた救援金、金額は、
 64,052,391円になりました。手持ち資金と合わせて全ての資金を
 今回の被災障害者の支援に使い切るつもりです。


・このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援
 ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」編集長バクバクの会事務局員でもある
 河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。広く知ってもらいたいので、
 転送自由。自由にお使いください。

・息の長い救援が求められています。長期戦です。救援金の送り先は、
 郵便振替口座:00980-7-40043:ゆめ風基金「とうほく」と書いてください。

 ボクの友人で、足に少し障害のあるひとがいます。
某障害者作業所の責任者をしているのですが、そのひとが、自宅で、手首を切って、自殺を図ったとの知らせでした。
最近、心が風邪をひいたようなので、何度も話しをしていて、心配していたので、ショックを受けました。(泣)幸いに、
発見が早く、傷も浅かったのか、出血も止まり、救急車で、病院に搬送されたとのことです。
ホッとしたものの複雑な気持ちに陥りました。その友人とは、今回の大震災救援金を集める活動を一緒にしていたのです。
 被災地では、多くひとたちがいのちを断たれ、生き残ったひとたちが、生きることに、必死になっている。
それを支援しょうと救援活動をしている人間が、いくら心の風邪ひきとは言え、自らのいのちを絶とうとするとは、
あまりと言えば、あまりじゃあないかと。
 ボクも、最近、ちょっぴり、心が風邪気味だけれど、被災地の今に想いを馳せれば、そのような選択は有り得ない。
怒りと悲しみがない交ぜになって、言葉を失って、風に吹かれるままでした。

 ある、大阪府下の自治体消防士の話。そのお連れ合いが、友達に話したこと。
その友達がボクの友達です。大震災直後、岩手県被災沿岸部に派遣され、安否捜索活動に従事したけれど、
高い木の上に、何人もの遺体があり、それを収容するのが、とても辛かった。そんな光景や、遺体安置所の光景は、
メディアの映像には、採用されてはいない。
 あの作業は、1週間が限界だ。それ以上は無理。精神的に持ちこたえられない。
本当に伝えられないことが多過ぎると憤慨しているとのこと。それにしても、自分たちは、大阪に帰ることが出来る
けれど、被災地の人たちは、ずっといるわけだから、その人たちのことを想うと、言葉を失うと。

<ゆめ風基金が派遣した八幡理事の現地救援活動の報告の>
・3月30日、現地入りしましたが、目を見張るものがあります。前回19日に入った時には、街は、真っ暗で、人通りは、
 ほとんどなかったけれど、今は、同じところなのかと見違える位の、賑わいで、びっくりしました。
 ライフラインもかなり復旧していますが、拠点から少し離れた海岸線は、津波のキズ跡がそのままあります。
 しかし、ガソリン不足は続いています。

・31日、市社会福祉協議会で聞くと、精神障害者の日中活動拠点1ケ所が津波で消失。知的障害者の作業所が1ケ所、
 地震で全潰だそうです。午後からは、地元障害者団体、13団体が集まり、現状報告、意見交換をして、
 宮城県内被災障害者支援のための、:被災地障がい者センターみやぎ:を立ち上げることを決めました。
 その中のひとつに、石巻市の避難所になっている、遊学館がひどい状況になっているとの報告もありました。

・4月1日、打ち合わせ。、ゆめ風ネット埼玉の吉田さんの友人、新野さんと一緒に石巻市に行くことにする。
 三陸自動車道は、車で走れるものの、地震のせいでデコボコになっており、制限速度が50キロ。
 最初の訪問先のしょう心会事務所は、海岸に近く、車がひっくり返り、船が打ち上げられていました。
 それから、ひたかみ園:知的障害者更生入所施設:を訪問。施設は、建て替え中で、土地が少しだけ高くなって
 いるので、津波からギリギリで被災しなかった。そのおかげで、町民の避難所になっており、40人程のひとたちが
 避難しており、6人程の、車イス障害者を確認しました。
 19時に拠点に帰り着く。東京のJILのメンバー2人が、救援物資を持って到着。夕食を取りながら、意見交換。
 東京の杉田さんが合流。新宿よりバスで。

・4月2日、埼玉の吉田さんの友人、本吉さんたち2人が救援物資を持って到着。
 9時、毎日新聞の取材を受ける。10時、名古屋わっぱの会からボランティア2人到着。明日からの活動説明。
 明日以降も、何人かのボランティアが入るので、訪問は中止。資料作りに専念。たすけっとの障害者の井上さんが、
 県内の福祉サービス事業所に電話入れ。障害者の安否確認。今後、ネットワークに属さない団体、個人の安否や
 ニーズを調べる。
 大阪は、宮城県。東京は、福島県と言う枠組みを取り払い、全体的な取り組みにし 、
 長期に支援に入れるボランティアを集める。
 福島県は、原発事故があるので、事情説明の資料を作る。

・4月4日、わっぱの会の2人に、多賀城市などの調査に行ってもらう。大阪から、新たなボランティア松浦さん到着。

<新野さんの報告の一部>
  ほとんど寝たきりの障害者、140人程が避難している避難所に出会いました。
 市、社会福祉協議会、医師、看護師などもいながら、その避難所の運営主体は、誰なのか不明のままです。
 一般避難所では、難しいひとたちが、ここに集められたらしい。その中に、子どもが4人いたのが不思議な光景で、
 声をかけてみると、友達に誘われて来たボランティアとのこと。全員裸足で、2週間程続けていると。
 しかも、中学生1、2年生で、かなり疲れている感じがした。
 体育館のようなフロアに布団が敷き詰められているのは、他の避難所と同様だが、座位を保てるひとがほとんどおらず、
 排泄もその場で行っている光景は、他の避難所と明らかに異なっている。
 子どもたちのボランティア姿が、痛ましく見えて、胸が締め付けられた。
by yamana-4 | 2011-04-07 14:31 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(0)

大災害でご両親を亡くした子どもたちの保険金請求がとても困難

「大災害でご両親を亡くした子どもたちの保険金請求がとても困難です」
ファイナンシャルプランナーの安田さんのブログより抄録転載


マネーセラピストの安田です。
これをお読みのみなさま最後まで読んで、是非、お力を貸してください。
(文章が下手で長いですが、お願いします)

3月11日の大震災のあと、テレビで流される映像や新聞記事をみて、
こころふさがれる思いでいっぱいになりました。
自分に何ができるだろうと考えて、今まで行動してきました。
いま、一番気になっているのは、大震災で親を失った子どもたちの保険金の請求です。
以下に書いたように説明するのも大変なほどカンタンには、請求できません。
前途はとても多難!なんです。

生命保険は「請求しないと保険金は払わない」というのが原則です。
ですから、小さな子どもであっても保険請求をしないと、親が入っていた保険の保険金は支払われません。

今回、生命保険会社は
1.通常の免責事由をやめて、地震や津波によって亡くなった人がたくさん出たにもかかわらず、
  死亡保険金を満額払うと決めたこと
2.通常、契約の決まりでは保険料が払えないと2ヶ月で失効(契約がなくなってしまう)するところを
  6ヶ月に延長したこと
3.生命保険協会を通じて、家族が、どこの保険会社に契約をしたのかという保険契約の照会をはじめたこと
  「災害地域生保契約照会センター」平日9時から17時まで 0120―001731
など、いち早く表明、行動したことは本当に素晴らしいと思います。

受取人であれば、保険証券が手元になくても死亡保険金請求ができるようにしている保険会社が多く、
それも心強いことです。
海難事故等での行方不明者の場合は、通常は1年経たないと推定死亡宣告(死亡と認められる)されないのですが、
今回は、特別立法で、3ヶ月になりそうです。
これで、家族が行方不明で死亡が確認されない人であっても3ヶ月過ぎて、自治体で死亡確認をしてもらえれば
保険料(掛け金)も払えない状態が続いても6ヶ月以内に請求をすれば、保険金が手に入ります。

ただし、保険料も払わず(払えない状態ですが)6ヶ月の間に請求をしなければせっかく今まで払ってきた、
「家族に残すための保険」は失効します。(=保険金を受取る権利が無くなります)

親を失った未成年の子どもはどうでしょうか?

生命保険協会の開設した契約照会センターでは、「未成年者の孤児の場合は、親権者を立ててください。
その方からの請求ならば、契約照会をします」と回答していました。
「親権者」とは親のことです。親を亡くしているのに?どういうことでしょうか?
では、どのようにするのかと聞いたところ「裁判所で聞いてくれとのこと」。

これはおかしいと思い、友人の弁護士に聞いたところ、「ありえない!」と。
そこで友人にセンターに電話をしてもらい両親をなくしているのだから「未成年後見」の間違いではないかと
指摘してもらったところ、「調べます」とのこと。
折り返しの回答は「未成年後見人か又は正式に委任している弁護士」ならば照会に応じるとのこと。

未成年者が正式に弁護士に委任するには、後見人が必要なんです!
結局は未成年後見人をつける必要があるってことなんですよ。
ということで、生命保険協会も迷走していたようです。う~ん、前途は多難だ!
さて、それでは、両親をなくした子どもが未成年後見を申請するには、どうするのか。

子どもの住所地を管轄する家庭裁判所に申請をしなくてはなりません。
岩手に住んでいた両親をなくされたお子さんが北海道の親戚に引き取られたとすると北海道の家庭裁判所ではなく、
岩手のその地域の家庭裁判所まで出向かなくてはなりません。
(書類でも大丈夫かは裁判所に聞いてくださいね)

両親が行方不明の場合は、推定死亡が出る3ヶ月を待って、それから地元の家庭裁判所に申請をすることになります。
申請にはお金がかかりませんが、書類が結構多いです。

子どもの戸籍謄本、住民票、後見人になる人(候補者)の戸籍までは難しくありませんが、
無くなった両親のそれぞれの除籍謄本や改製原戸籍(生まれてから死んだときまでの戸籍全部)が必要になります。
生まれてからずっと同じところに住んでいる場合はともかく、結婚して他の地域から来た人などの
戸籍をすべてそろえるのには、手間と時間がかかります。なれない人だと、1ヶ月はかかるかもしれません。
申請書も上申書などで事情を書いて、速やかに申請を許可してもらわなければ、ここでも時間ばかりが過ぎていきます。
(´-д-;`)

何とか申請が通り、親戚の方が正式に未成年後見人に選任されてから、やっと生保契約照会センターに電話することが
できるのです。(やれやれ)
照会センターに問い合わせて探しだしてもらうのには、今現在、3週間ほどかかるといいます。

この大震災でご両親をなくした子どもが親が残した大切な保険金を手にするまでにはこのようなことを経なくてはなりません。
ふぅ。書いているだけで、くたびれます。

例えば、孫を引き取った70過ぎのおばあちゃんが一人でここまでできるかなぁ?
どう思われますか?
私には、1歳未満の孫がいますが、例えば、被災地に住んでいて今回の災害に遭い孫だけが生き残ったときはどうなるでしょうか?
私は事業をしているので、生命保険をしっかり掛けています。
私の母も死に受取人の夫が死に、未婚の娘が死に息子も配偶者も死んでしまったときに、残されたのが、その孫だったとします。
孫を引き取った人は息子の保険は探すと思われますが私の保険まで探すと思いますか?
私の保険はどうなるのでしょうか?
どうしたらよいのでしょうか?

私は保険会社に行動を起こしてもらいたいと思います。
生命保険会社は「保険請求をしないと保険金を払いませんよ」という原則の上に胡坐をかいて保険金請求を
「待っている(受身)」のではなく、
被災地域の被災者の安否確認を生命保険会社が自らが積極的にしにいくという行動を起こして欲しいと切に願います!!!

険会社には、たくさんの営業社員がいますよね。その人たちを全国から動員してでもやって欲しいです。
そんなことをしたら、新規の保険契約は少なくなってしまうからやらないのだと思いますけど、
今回の場合、そのようなことを考えないで、契約者を大切にして欲しいと思います。
保険は「残された家族のための愛情」です。それを消しさって欲しくないです。

避難所をめぐって契約者を探し歩いているある保険会社の代理店がいることは知っています。
自分も被災されているのに。素晴らしい行動です。
地元の営業担当者だった人の中には、今回の災害で亡くなった人もいるでしょうし、廃業されたりしているかもしれません。
保険の保全は、本社扱いと言って担当者のいなくなった保険契約も最近では増えている傾向にあります。
とすれば、担当者任せでは無く、保険会社自体が契約者の安否確認の行動を起こすべきだと思うのです。

そこで、ここまでお読みいただいた皆様へのお願いです。

ツイッターやブログ、フェイスブック等で、各保険会社に対して被災地の契約者の安否確認や法定相続人を探す努力をして
欲しいと訴えてください。受身ではなく、行動を起こして!と。
団体を組織している方は、是非、各生命保険会社に申し入れをしてくださいませんか。
また、発言が社会的に影響を持つ人をご存知の方はその方に、このことを知らせて保険会社に働きかけをしてくれるよう
お願いしてください。

同時に被災者の方に向けて6ヶ月以内に!保険金請求をすることを忘れないようにと書いてくださいませんか。
どこの保険会社かわからなくても大丈夫だから、と。
とりあえず生命保険協会の「契約照会センター」に電話するように伝えてください。
特にお子さんだけが残されたご家族をご存知の方は、是非、早めに行動を起こすことを伝えてあげてください。


以下略、安田さんのブログは下記より
http://my-fp.livedoor.biz/
各地の裁判所はこちら
http://www.courts.go.jp/map.html
未成年後見人の手続はこちら
http://www.courts.go.jp/saiban/syurui/kazi/kazi_06_12.html
この災害での申請について弁護士に相談したいときには「法テラス」に電話して相談してもいいかもしれません。
0120-366-556(フリーダイヤル)
by yamana-4 | 2011-04-07 06:59 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(0)

「ゼンカイハウス」の建築家宮本さんの被災地レポート

◉阪神・淡路大震災で全壊した生家を再生された
「ゼンカイハウス」の建築家・宮本佳明(かつひろ・大阪市立大学大学院教授)さんが、
被災地の仮設住宅などの助言や調査で現地へ行かれた報告です。

(転載許可を受けて公開、同大学院理学部教授M先生からの質問への答えでもあります)

宮本です。
昨日夜、東京を経由して釜石から戻りました。
レスが遅くなってすみません。

(M教授の質問:大量の学生ボランティアを送ることができれば、よいとは思ってはいますが、
テレビ報道では、被災者の水、トイレが問題になっています。ボラン ティアが行ったら水、トイレの問題を
より深刻化させる懸念はどう克服できそうか知りたいです。)

トイレですが、釜石に関してはまったく問題ないです。
正確に言うと、ボランティアを受け入れられるような地域ではそもそもトイレについて問題ない、
ということです。

つまり、これは予想通り被災の程度のグラデーションが相当はっきりしていることを意味します。
他にもいろいろ分析して、ようやく被災地全体の構造が見えてきました。メディアではきちんと報道さ
れていないと思います。
途中からどっかで聞きつけたNHKのクルーが我々に帯同しましたが、彼らとて釜石にずっと張り付いているとかで、
被災地の全体を把握している訳ではないとのことでした。

一番驚いたのは、地震そのものの被害は想像以上に少ない、というか実質「ない」ということです。
これは意外でした。被害のほぼ全てが津波が原因です。日本という国において、どうも人類の歴史上初めて建築に
ついては耐震設計が「完成」したようです。

以下が重要なのですが、
おそらく広い被災地全体としておよそ4段階くらいに分類できると思います。
仮に、被災の程度の軽い方からレベル1、2、3、4とします。

レベル1:
若林区を除く仙台。死者と行方不明者の人口に対する率が0.04%、これは「阪神」の時の宝塚市よりもちいさな
数字です。
この数字には津波に襲われた若林区を含んでいないことを勘案すると、実質は尼崎市以下のレベルだと推測されます。
つまり仙台は被災地なんかじゃない。東北大の友人の先生方にも、オマエらは支援されるより支援する側に回れ!と
言うています。

レベル2:
 亘理町、岩沼市、大船渡市など報道されるその他多くの被災地。上記に率は概ね1%台から0.1%台。
「阪神」の時の灘区、東灘区、長田区あたりに相当します。人口規模が違うので単純には較べられませんが、
 大変な状況であることは間違いない。

レベル3:
 宮古市、釜石市、気仙沼市、石巻市など上記に率が数%の町村です。「阪神」の時に特別にヒドかった地域、
 例えば芦屋市津知町、同清水町周辺が同じような感じです。ここまでは想像が可能です。
 今回僕が訪れたのも釜石市なので、東京からの参加者(東大都市工学科北沢猛さん西村幸夫さん系)は相当
 ショックを受けたようですが、僕ははっきり言って驚きませんでした。

レベル4:
 ここが問題です。いずれも人口規模1~2万くらいの大槌町、陸前高田市、女川市、おそらく山田町もここ
 に含まれるが不明者がまったく集計できていない。上記に率でいうと10%程度。これは我々にとって未知
 の領域です。この人口規模のエリアとしては「阪神」でも経験したことのない被害です。

さらには同じレベル3の釜石市のなかでも、津波の上がらなかった「西部」「鈴子」は無傷で通常通りの生活
が営まれている。
現地の人に案内されてフツーに暖かくて美味いうどんが食えた。もちろん電気もあり。
一方、海岸沿いの「東部」は壊滅、テレビの通り。
行く時間がなかったが、鵜住居(うのすまい)という別の入り江はレベル4ではないかと思います。
こっちが心配。僕はレベル4に特化したいと思います。

という訳でM先生、僕が今知る範囲ではレベル3までは普通にボランティアが入れます。
今回の(津波)被害は、全壊と無傷に二分されて半壊状態の建物も地区も存在しないということが特徴です。
皮肉にも、けが人が少なかったということとパラレルですね。。

僕は13~14日と三陸すべてを歩きます。効率的に動くために必ず1人で動く予定です。
目的は、生活を取り戻すために「三陸高地漁村」の敷地に当たりをつけて、実際に設計するためです。

ちなみに今回の釜石行きは、仮設住宅のレイアウトを中庭を囲んだ囲み配置に変更させるためのものでした
(行ってから知った)。既存の良好なコミュニティを維持するために。
地元(釜石市の担当課長、岩手県の沿岸広域振興局長)の絶大な支持を得て、彼らの名代として走った盛岡の
県庁で、福島・宮城・岩手の平等と速度を盾に提案を阻まれました。
ただし、国交省を説得してくれたらとの文言ももらったのでその線を責める予定です。

まだまだ報告しないといけないことは一杯ありますが、なにぶん時間がないのでこのへんで。


宮本佳明 Miyamoto Katsuhiro
(株)宮本佳明建築設計事務所
〒665-0003 兵庫県宝塚市湯本町4-29
TEL/0797-87-6075 FAX/0797-87-6077
e-mail/ km@kmaa.jp
http://www.kmaa.jp
by yamana-4 | 2011-04-07 02:49 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(0)

素早い連係プレーで成功した被災地の透析患者広域搬送1100人

◉被災地の透析患者には停電や断水が命に関わり、救済は緊急を要することですが、
見事な連携プレーでいわき市の透析患者1100人もが各地の病院に搬送され、
受け入れられたことが掲載されているので要約転載します。

(週刊文春3月31日号/病院情報ファイル2011/取材構成・恵原真知子)

 いわき市南部にある「いわき泌尿器科病院」は、原発から50キロ離れているが、いずれ避難が必要と
なるかも知れない。入院患者百人、通院患者千人の透析患者をどうするかで困っていた。
 腎不全に対する血液透析はまさに患者の命綱で、週三回透析治療を受けている患者が丸々一週間透析
をしないでいると確実に死んでしまう。透析は、患者一人につきに十人分の生活用水を要する。
装置が無事で、海水淡水化装置などがあれば被災地でも可能としても、断水と放射能漏れが拡大しつつ
あり、もはや患者移送しかなくなった。

 苦境を知った千葉の亀田総合病院の副医院長が理事長と諮り受け入れを決め、さらに知り合いの医師
に呼びかけ、千百人の大移動計画が立てられた。
 推進役は帝京大教授。主な多数の受け入れ先は(東京)東京女子医科大・昭和大・東京大(大阪)阪
和病院(兵庫)共立病院など。
透析ができないことで患者を死なせてはならないという思いから、〇四年に災害情報ネットワークが構
築されたが、これがフル活用された。

 入院患者は受け入れ先が決まれば無事に搬送するだけだが、通院患者が遠距離に移動した場合は宿泊
施設も必要になり、それらも含めた対応が求められる。東京の宿泊先については猪瀬副知事が奔走。
道路事情も悪く、ガソリン不足の中で、新常磐交通が真っ先に受け入れ、次々に協力会社が参加。
透析関連の薬剤メーカーなどにも協力を要請し、応じてもらったという。
 震災から七日目の十七日、東京、安房鴨川方面に向け八百人が出発し、残る三百人は順次、新潟や関
西に向かう。東京に着いた三百六十人は避難所に入った。

広域搬送のシステム化を
被災地において、慢性疾患患者の治療は、被災地で続けるより平常な場に患者を移送した方が合理的と
され、自治医大などは早くから受け入れOKをメール発信していた。この広域搬送システムが完備し、機
能すれば、医師が宿泊先探しまでする必要がない。一日も早く実現してほしい。
 災害情報ネットワークができていたことが幸いだが、たった数人の医師と民間の協力でこれだけのこ
とが数日のうちにできててしまったのだ。
ピンチのときこそ人や組織の真価が表れるのだろうが、勘のよい医師が数人集まると、こんな大仕事も
あっという間に解決するというお手本。
by yamana-4 | 2011-04-02 10:40 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(2)

「がんばって」というのは止めよう、がんばるのは私たち!

ぜひ読んで頂きたい3月30日毎日新聞の社説を転載します。
筆者は、知的障害児の父親であり、千葉県の障害者差別禁止制定にも深くかかわってこられた
野沢和弘論説委員です。        
テレビ朝日のスーパーモーニングで、東ちづるさんだったかが「被災者にがんばろうと言うのはやめよう。
(これ以上がんばれは酷です)がんばるのは支援者の方です」とコメントしていました。
まったくその通りだと思っています。
「被災者はもう精一杯がんばっています。こらからがんばるのは私たちです」


社説:被災した子ども 泣いたっていいんだ

 父や母を求めて避難所を回っている小学生がいる。がれきの中から思い出の写真やカバンを探す子どもたちもいる。卒業式では笑顔も見られた。「がんばれ」。けなげな姿に全国から声が上がる。死者1万人以上、行方不明者1万6000人以上。信じられない現実を前にしたら誰だって励ましたくなる。どこかに希望を見つけたくなるものだ。

 しかし、子どもたちは十分にがんばっている。現実に起きたことを大人のようには理解できず、気持ちをうまく伝えられなくても、恐怖やショックによるトラウマ反応、家族や自宅をなくした喪失感は子どもの心にも起きる。今、必要なのは励ましよりも、小さな変化に周囲が気づき適切なケアをすることだ。

 眠れない、食欲がない、赤ちゃん返りをする、大きな音におびえる、いらいらする、夢にうなされる、好きだったことをしなくなる。このような様子が見られたら注意が必要だ。「大丈夫だよ」と声をかける、寝るときは一人にしない、スキンシップを心がけるなど、安心感を与えるための配慮が必要になる。被災体験を繰り返し話す子もいるが、衝撃的な現実をなんとか受け入れようと苦しんでいるサインだと思って辛抱強く聞いてほしい。

 「弱音を吐くな」「もっと大変な人がいる。負けるな」などの叱咤(しった)激励は禁物だ。こちらは一生懸命に励ましているつもりでも、子どもを追い詰めるだけという場合がある。自分だけ生き残ったことで罪悪感に苦しんでいる子もいる。泣きたいのに我慢したり、つらい気持ちを隠したりする必要はないことを伝えるべきだ。被災した子どもへの対処法については日本臨床心理学会や国立精神・神経医療研究センターがホームページで紹介している。心のケアの専門職が被災地に入っているもののとても足りる状況ではない。関係学会はメールや電話相談も開設しているので積極的に利用してほしい。

 被災直後は気持ちが張っているため休まなくてもがんばり続けられるが、長期化すると急に落ち込んだり体調を崩すことがある。被災後の小さな症状は適切な配慮をすれば一過性のものとして回復することが多い。しかし、そうした症状が1カ月以上続いたらPTSD(心的外傷後ストレス障害)の疑いがあり専門的なケアを受けることが必要だ。

 また、衝撃的な映像を繰り返し見ることで直接被災していない子どもにも不眠などの症状が起きる場合がある。不安を訴え、教室で突然泣き出した子もいるという。日常の中の異変を見落とさないでほしい。

 これからが正念場だ。小さな命をみんなで守りたい。
by yamana-4 | 2011-03-31 11:40 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(0)

被災障害者への募金活動ーゆめ風基金

◉通常の義援金は赤十字に集められ、自治体から平等に配分されますが、
「ゆめ風基金」に募金していただくと「被災障害者への救援や支援」に使われます。
今回の震災や津波と原発事故などは、障害者には一層過酷な生活を強いることになっています。
なにとぞ、ゆめ風基金へ募金して頂きますようお願いします。

写真は3月26日 大阪千日前で「ゆめ風基金」への募金活動をする障害者たち

郵便振替口座
00980-7-40043 ゆめ風基金
"http://homepage3.nifty.com/yumekaze/index.htm

東北関東大震災障害者救援本部
http://shinsai-syougaisya.blogspot.com/

クレジットカード決済専用のアカウント
http://www.j-payment.co.jp/lan/bokin/dpijp.html?1
(1,000円からの寄付が可能です)
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by yamana-4 | 2011-03-26 15:19 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(1)